経営者の本音 — 「投資が他社の利益になる」恐怖
企業が認める本音の懸念
帝国データバンクの2024年調査では、リスキリングに関連して多くの企業から「新しい技術の習得により、他の業界・会社への転職が容易に行えるようになることに危機感がある」という声が報告されています。
この懸念を感情論だと片づけるのは簡単です。しかし、経営判断としては合理的な面もあります。
あなたが500万円かけて社員にAI研修を受けさせたとします。その社員が半年後に競合に転職したら、500万円で競合の戦力を強化したことになる。そう考えるのは、自分のお金で会社を回しているオーナー経営者であれば、なおさら自然なことです。
この恐怖が生む「誰も動かない均衡」
この懸念が業界全体に広がると、厄介な状態が生まれます。
A社が「うちだけ投資して、育てた人を他社に取られたくない」と考える。B社もC社も同じことを考える。結果として、どの会社もリスキリングに投資しない。市場全体のスキル水準が上がらない。全社がスキル人材不足で苦しみ続ける。
ゲーム理論に「囚人のジレンマ」という考え方があります。一人ひとりが合理的に判断した結果、全員が損をする状態のことです。
今の日本の労働市場は、まさにこの状態に近い。どの会社も「うちだけ損をしたくない」と考え、結果として全員が損をしている。
「育てたら辞める」をデータで検証する
離職の本当の理由はスキルアップではない
では、実際のデータを見てみましょう。
エン・ジャパンが2025年に発表した調査では、早期離職の要因として最も多かったのは「仕事内容のミスマッチ」57%でした。
マイナビの2025年版調査(2024年実績)でも、「やっぱり離職」の要因1位は「仕事内容のミスマッチ」24.5%、2位「社風・仕事文化とのミスマッチ」18.7%、3位「上司との相性が合わなかった」18.4%。
注目してほしいのは、「スキルが上がったから辞めた」「より高い報酬を求めて転職した」は上位に入っていないという点です。
辞める理由の大半は、ミスマッチと人間関係。「育てたから辞めた」のではなく、「仕事の中身が合わなかった」「会社の雰囲気に馴染めなかった」で辞めている。
むしろ「成長できない」ことが離職理由になっている
もうひとつ見逃せないデータがあります。
2023年、転職を希望する人の数は1,000万人を超え、過去最多を記録しました。転職理由の上位に並ぶのは「成長機会の不足」「キャリアの停滞感」です。
つまり「育てると辞める」のではなく、「育てないと辞める」方が実態に近い。
あなたの会社で優秀な社員が辞めたとき、本当の理由を聞けていますか? 「もっと成長できる環境を求めて」という声が出ていたなら、それはリスキリング投資が足りなかったサインかもしれません。
リスキリング投資は「定着率の向上」にも効く
学びの機会を提供する企業は、社員のエンゲージメント(仕事への意欲や会社への愛着)が高まりやすいと言われています。
「この会社にいれば成長できる」という実感が、転職を踏みとどまらせる。逆に「ここにいても成長できない」と感じた瞬間が、転職活動のスイッチになる。
リスキリング投資は「スキルを上げるための施策」であると同時に、「人材を引き留めるための施策」でもある。この両面を理解しておくことが大切です。
【経験談挿入ポイント】リスキリングと定着の関連を感じた場面
投資回収の設計を変える
「辞められる前提」で投資を設計する
「育てても辞めるかもしれない」。この不安を完全にゼロにすることはできません。
しかし、リスクをゼロにしようとするから動けないのです。発想を切り替えてみましょう。「離職リスクを受け入れた上で、投資回収期間内に成果を出す」という設計にすればいい。
商品開発に投資するとき、「失敗するかもしれないからやめよう」とは言わないはずです。リスクがあることと、投資しないことは別の話。リスキリングも同じです。
投資対象を「全社員一律」から「戦略ポジション」に絞る
前回見た通り、全社員にeラーニングを配っても効果は薄い。現場の負荷が増えるだけで、成果が見えにくくなります。
投資の効果を最大化するには、対象を絞ることです。
事業戦略上の重要ポジションを特定する。そのポジションに必要なスキルを定義する。そこに集中的に投資する。10人に50万円ずつではなく、3人に150万円ずつ。どちらが事業を動かすかは明白です。
投資しないリスクの方が大きい
最後にもうひとつ、天秤にかけるべきことがあります。
「育てた社員に辞められるリスク」と「育てないことで事業が停滞するリスク」。どちらが経営にとって致命的でしょうか。
リスキリングに取り組まなければ、DXに対応できる人材が育たず、労働生産性が停滞する。スキルが古いまま放置された社員は、案件にアサインされにくくなり、稼働率が落ち、やがて別の理由で辞めていく。
どちらのリスクも完全には避けられません。しかし、投資した方がまだ勝率がある。そう判断できるかどうかが、これからの経営者に問われています。
問題は「投資するかしないか」ではなく「設計が間違っている」こと
「育てたら辞める」は、経営者の実感としてはよくわかります。しかしデータは「育てないから辞める」という逆の構造も示しています。
問題の本質は「投資するかしないか」ではなく、「投資の設計が間違っている」ことにあるのかもしれません。
ではなぜ、日本企業のリスキリング投資は設計がうまくいかないのか。次回は、その根底にある日本型雇用の構造的矛盾に踏み込みます。「うちは年功序列じゃない」と思っている方ほど、読んでいただきたい内容です。
「育てるか、育てないか」ではなく「どう設計するか」に問いを切り替えてみてください。
よくある質問
Q. リスキリングで社員のスキルが上がると転職されますか?
多くの経営者がこの懸念を持っていますが、データは異なる実態を示しています。エン・ジャパンが2025年に発表した調査によると、早期離職の要因1位は「仕事内容のミスマッチ」57%であり、「スキルが上がったから辞めた」は上位に入っていません。むしろ成長機会の不足やキャリアの停滞感が離職の引き金になっています。
Q. 企業がリスキリング投資をためらう本当の理由は何ですか?
帝国データバンクの調査では「新しい技術の習得により、他社への転職が容易になることへの危機感がある」という声が多数報告されています。自社の投資が競合の戦力強化につながるリスクを恐れ、結果として業界全体でスキル人材が育たない「囚人のジレンマ」に陥っています。
Q. リスキリング投資をしないリスクはありますか?
投資しない方がリスクは大きくなります。スキルが古いまま放置された社員は案件にアサインされにくくなり、稼働率が下がり、やがて離職します。DXに対応できる人材が育たないことで労働生産性が停滞し、事業全体の競争力が低下するリスクもあります。
Q. リスキリング投資の効果を最大化するにはどうすればいいですか?
全社員一律ではなく、事業戦略上の重要ポジションに絞って集中投資することが有効です。また、スキル習得と社内キャリアパスを連動させ「ここにいれば成長できる」という実感を持たせることで、転職インセンティブを下げながら投資効果を高められます。