第5回:AIが踏み越えた境界線

ここまで、民間の流通と国家による集約を見てきました。いずれも厄介な問題ですが、ある意味では既存の保護の枠組みのなかに収まる議論ではありました。けれど、生成AIはその枠組みすら飛び越えはじめています。

学習データに何が含まれているのか、本人にも、提供者にも、ときには運営企業にも、正確には把握できない。この「不透明さ」が、個人情報保護の前提を根底から揺さぶっています。

「公開=学習可」と本当に言えるのか

「ネットに公開した情報なら、AIに学習されても文句は言えない」。生成AIをめぐる議論で、よく聞かれる主張です。

確かに公開情報は誰でも閲覧できます。検索エンジンがクロールするのと同じことだ、という説明もあります。でも、本当にそうでしょうか。

ある人物の発言・写真・経歴を、世界中のクローラーが横断的に集め、統計モデルに組み込み、本人の知らない文脈で再利用する。「公開」とは、それまで閲覧する1人ひとりの人間を想定していたのであって、世界中のサーバーに永久保存され、別人の文体を真似るための素材になることまで含意していたでしょうか。

質的に異なる事態が起きているのに、「公開=同意した」という古い前提を機械的に当てはめる。これが現在の状況です。

訴訟は世界中で進行している

各国で、すでに多くの訴訟が動いています。

米国ではニューヨーク・タイムズが2023年にOpenAIとMicrosoftを提訴しました。報道機関のコンテンツが学習データに使われた問題と、生成AIが類似の出力を返す問題を争点としています。米国では2026年5月時点でAI著作権関連訴訟が100件を超えるとされ、判決の動向も徐々に明確化してきています。書籍データの学習を「変容的利用」として認める判断が出る一方、海賊版書籍の保存については侵害と認定される判決も確定しており、業界の対応方針が固まりつつあります。

日本でも動きは加速しています。2025年8月、読売新聞・朝日新聞・日本経済新聞が相次いで生成AI検索サービス「Perplexity AI」を東京地裁に提訴。読売の請求額は約21億6,800万円。「機械学習パラダイス」と評されてきた日本の著作権法も、ついに法廷で問われる段階に入りました。

個人にとっての本当の困難

ただ、個人情報保護の文脈で見たとき、もっと深刻な問題が訴訟以前にあります。

自分のどの情報が学習に使われたのか、本人にはわからない。学習データの内訳は、運営企業が公開していないことがほとんどです。仮に「学習されている」と分かったとして、削除を求める手段もほとんどありません。

EUのGDPRには「忘れられる権利」(第17条・消去権)が規定されています。けれど、すでに学習されたモデルから特定の個人の情報を「忘れさせる」ことは、技術的に容易ではありません。無数のデータで重みづけされたモデルから、特定の人物の痕跡だけを取り除くのは、料理に混ぜ込んだ調味料を取り出すようなものだからです。研究は進んでいますが、確実な手法とは言えません。

「忘れられる権利」を語るには、何を覚えられたかの可視化が必要です。けれど、その可視化すら、私たちは持っていない。

ChatGPTのログが訴訟の証拠に

もうひとつ、AIと個人情報の関係を象徴する出来事がありました。

NYT vs OpenAI訴訟のなかで、2025年5月、NYT側はChatGPTの過去のユーザー会話14億件を保全せよと裁判所に要求しました。これにはユーザーが削除した会話まで含まれていたとされます。OpenAI側は猛反発し、「ユーザーのプライバシーを侵害する」として上訴を続けています。

訴訟の本筋は著作権ですが、副産物として「AIサービスのユーザーの会話履歴」というプライバシーの塊が、訴訟の証拠として保全対象になりうることが露呈しました。あなたが何気なくAIに相談した内容が、第三者の訴訟の影響で保全され続ける可能性がある——そんな世界に、私たちは入りつつあります。

AIは問題を作ったのではなく、露呈させた

ここまでの話を整理すると、こうです。

AIは、新しい問題を作ったのではありません。「公開した情報の二次利用にどこまで本人の同意が必要か」「学習されたデータを削除する権利はあるのか」「サービス提供者の保管データに、本人以外がどこまでアクセスできるのか」。これらの問いはずっと存在していました。

でも、これまでは技術的・経済的な制約のせいで、極端な事態が起きにくかった。AIは、その制約を一気に取り払ってしまった。だから、既存の保護の枠組みでは扱いきれない事態が、次々に表面化しているのです。

新しい技術ごとに法律を後追いで作るやり方では、おそらく追いつきません。次回からは、視点を変えます。私たち自身が、本当は何を守りたいのか。その本音を、いったん整理してみる必要がありそうです。


引用元


著者プロフィール

町島 和徳(ギャラクティックブレーン合同会社 代表社員)

電気通信大学在学中からコンテンツ制作の現場でキャリアをスタート。エンタメ業界での経営実務を経て、現在はコンサルタント兼フルスタックエンジニアとして活躍。経営・マーケティング・技術の複眼的視点と、部門や階層を超えたファシリテーション力を強みに、スタートアップから大手企業まで幅広いDX支援を手がける。生成AI・RPAの実務活用を精力的に展開。成功・失敗双方の実践知を惜しまず発信する現場主義のプロフェッショナル。